薩摩藩旅行記

2004.08 肥薩のみち② 仙巌園で薩摩藩の栄華を感じる(by Johnnieさん)

薩摩藩
翌日、熊本の黒川温泉を出て鹿児島へ入りました。
今日はよい天気です。
まずは薩摩家の庭園である、仙巌園へ。

【旅行時期】2004/08/18~2004/08/18
【エリア】鹿児島市内
【テーマ】歴史・文化・芸術
【投稿者】Johnnie

篤姫お輿入れの頃、薩摩藩江戸屋敷があった渋谷区東周辺(by どーもくんさん)

薩摩藩
NHK大河ドラマ「篤姫」に出てくる篤姫お輿入れのシーン。この頃の薩摩藩江戸屋敷は、今こんな感じです。
薩摩藩江戸屋敷は元々、現在の港区田町にあったのですが、安政大地震で倒壊して、現在の渋谷区東に移転しています。
ここから篤姫のお輿入れがされたとされています。
今では屋敷跡があったり、碑が建っているわけでもなく、白根記念渋谷区郷土博物館・文学館の周辺だったということだけが、伝えられています。
斜め向かいには常陸宮邸もあり、閑静な邸宅街です。
何の変哲もない街歩きではありますが、表参道駅から白根記念渋谷区郷土博物館・文学館まで歩いていってきました。

【旅行時期】2009/02/11~2009/02/11
【エリア】渋谷・青山
【テーマ】歴史・文化・芸術
【投稿者】どーもくん

屋久島の旅・その4・・・白谷雲水峡(by 早島 潮さん)

薩摩藩
平成20年12月15日(月)
 朝起きて部屋の窓から空を見ると海の方には青空が見えているが山の方には雲がたちこめていて天候が心配である。田代別館を8時に出発してバスで白谷雲水峡へ向かった。


今日のバスは小型バスである。総勢18名だから経済性の観点から小型にしたこともあるが、狭い林道を曲がりくねりながら運行するには大型バスでは高度の運転技術を必要とすることも理由の一つであるようだ。

 若い運転手である。聞いてみると青森出身で自分探しの放浪の旅を続け、太古の自然環境が保存されている屋久島こそが探し求めていた終の棲家であるとの結論に達し4年前から住みついたという。この島には同様の考え方で移住して来た人々がかなり多くいるようだ。

白谷雲水峡へ到着した時には運悪く小雨がぱらつきだした。

 散策コースは ・弥生杉コース(1時間) 
        ・楠川歩道もののけ姫の森コース(2時間)
        ・楠川歩道太鼓岩往復コース(4時間)
        ・原生林コース(3時間)
        ・三本足杉往復コース(1時間)
        ・原生林・太鼓岩コース(5時間) 
 の六通り用意されているが我々のグループは弥生杉コースを歩くことになっている。

 管理事務所で入場券のチェックを受けて入るといきなり大きな岩場である。合羽を被り傾斜のある岩の上を滑らないように慎重に歩を進めるが掴るものがないので足元がこころもとない。何とか転びもせずに無事岩場を越すことが出来た。

 白たえの滝、憩いの大岩、飛流橋、飛流おとし、苔河原、さつき吊橋、弥生杉を見学した。要所々では写真撮影したのだが、生憎の雨のせいで露光不足のため画面が暗くアップできるものが少ないのは残念である。
 ガイドの横山嬢の説明で屋久島ゆかりの二人の人物を知った。儒学者・泊如竹と詩人・山尾三省である。
          
帰宅後に調べて判ったことを以下に記録しておこう。

泊如竹につぃては以下のURLからの引用である。
  • http://72.14.235.132/search?q=cache:jTGCVUSQ4V8J:www2u.biglobe.ne.jp/
  • ~hakuzou/yakushima.htm+%E5%84%92%E5%AD%A6%E8%80%85%E3%80%81%E5%B1%8B%E4%B9%85%E5%B3%B6&hl=ja&ct=clnk&cd=5
    以下引用

    屋久杉の利用が本格的になったのは江戸時代からです。それまで屋久杉は信仰の対象(神宿る木)としてあがめられ 伐ったらたたりがあるという呪縛から人々は逃れられませんでした。
     江戸初期に入って屋久島生まれの儒学者・泊如竹(とまり・じょちく1570~1655)が薩摩藩の財政を安定させ島民の暮らしを豊かにする為に屋久杉利用を献策しました。江戸時代 木目が緻密で美しく耐久性があり真っ直ぐに割れ加工しやすい屋久杉は屋根を葺く平木」として重宝されました。鋸と斧で伐採されたや屋久杉はその場で長さ50cm幅10cmほどの薄い平木に加工され人が背負って平地に降ろし年貢として薩摩藩に全て納められました。

    山尾三省についてはは以下のURLにプロフィールが詳しく紹介されている。
  • http://happano.org/pages/profiles/sansei_yamao.html
  •   
    ガイドの横山嬢が朗読してくれた聖老人と言う詩は以下の通りであるが上記URLからの引用である。

    聖老人
    屋久島の山中に一人の聖老人が立っている
    齢およそ七千二百年という
    ごわごわとしたその肌に手を触れると
    遠く深い神聖の気が泌み込んでくる
    聖老人
    あなたは この地上に生を受けて以来 ただのひとことも語らず
    ただの一歩も動かず そこに立っておられた
    それは苦行神シヴァの千年至福の瞑想の姿に似ていながら
    苦行とも至福ともかかわりのないものとしてそこにあった
    ただ そこにあるだけであった
    あなたの体には幾十本もの他の樹木が生い繁り
    あなたを大地とみなしているが
    あなたはそれを自然の出来事として眺めている
    あなたのごわごわとした肌に耳をつけ
    せめて生命の液の流れる音を聴こうとするが
    あなたはただそこにあるだけ
    無言で 一切を語らない
    聖老人
    昔 人々が悪というものを知らず 人々の間に善が支配していたころ
    人間の寿命は千年を数えることが出来たと 私は聞く
    そのころは人々は神の如くに光り輝き 神々と共に語り合ったという
    やがて人々の間に悪がしのびこみ
    それと同時に人間の寿命はどんどん短くなった
    それでもついこの間までは まだ三百年五百年を数える人が生きていたという
    今はそれもなくなった
    この鉄の時代には 人間の寿命は百歳を限りとするようになった
    昔 人々の間に善が支配し 人々が神と共に語り合っていたころのことを
    聖老人
    わたくしは あなたに尋ねたかった
    けれども あなたはただそこに静かな喜びとしてあるだけ
    無言で一切のことを語らなかった
    わたくしが知ったのは
    あなたがそこにあり そして生きている ということだけだった
    そこにあり 生きているということ
    生きているということ
    聖老人
    あなたの足元の大地から 幾すじもの清らかな水が泌み出していました
    それはあなたの 唯一の現わされた心のようでありました
    その水を両手ですくい わたくしは聖なるものとして飲みました
    わたくしは思い出しました
    法句経 九十八
    村落においても また森林においても
    低地においても また平地においても
    拝むに足る人の住するところ その土地は楽しい
    法句経 九十九
    森林は楽しい 世人が楽しまないところで
    食欲を離れた人は楽しむであろう
    かれは欲楽を求めないからである
    森林は楽しい 拝むに足る人の住するところ その土地は楽しい
    聖老人
    あなたが黙して語らぬ故に
    わたくしは あなたの森に住む 罪知らぬひとりの百姓となって
    鈴振り あなたを讃える歌をうたう































    山尾三省著「聖老人 百姓・詩人・信仰者として」 (プラサード書店発行)より


                                           

    【旅行時期】2008/12/15~2008/12/15
    【エリア】屋久島
    【テーマ】
    【投稿者】早島 潮

    江戸東京紀行(「篤姫」で名手小松帯刀が奏でた薩摩琵琶、上野公園の巻)(by 一歩人さん)

    薩摩藩
    上野公園をぶらり散歩と出かけました。大噴水の前にテントが張られ、
    物悲しい琵琶の音色が聞こえてきました。その音に誘われるように
    テントに入る私。え!薩摩琵琶?薩摩藩が武士のたしなみとして奨励。
    五弦五柱が特徴とか。撥(ばち)は、武士が刀の代わりに琵琶を持つので、
    丸腰の対策として、両端が鋭利な刃物の形をしているとか。
    そういえば、この大噴水の前では、さまざまなイベントが来るたびに
    行われておりますよねえ。
    ということで、ご紹介致します

    【旅行時期】2008/11/24~2008/11/24
    【エリア】上野・御徒町
    【テーマ】歴史・文化・芸術
    【投稿者】一歩人

    日本の旅 関西を歩く 倒幕を果たした戊辰戦争の跡をたどる(by さすらいおじさんさん)

    薩摩藩
    京都で勃発した鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい1868年1月27日)は、倒幕を果たした戊辰戦争(ぼしんせんそう1868-1869年)の火ぶたを切った戦闘だ。新政府はどのように倒幕を成功させたのか、プロセスを追ってみた。
    薩摩藩の大久保利通(おおくぼ としみち1830-1878年)や公家の岩倉具視(いわくら ともみ1825-1883年)らの策略で1868年1月3日に発せられた王政復古の大号令により、15代将軍・徳川慶喜(とくがわ よしのぶ1837-1913年)に対し辞官納地が命ぜられ、旧幕府旗本や会津藩の過激勢力は、いきりたった。このとき徳川慶喜は臣下をおさえ、総裁(首相)の有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう1835-1895年)に恭順の意思を示すために京都の二条城から大阪城へ退去したものの「領地返上」には応じなかった。
    強硬派・大久保利通らは慶喜の見せかけの恭順を責め即時倒幕を主張したが、松平春嶽(まつだいら しゅんがく1828-1890年)、岩倉具視ら多数は「徳川家の領地を調べ、政府会議をもって確定する」というおだやかな命令案に決定し慶喜の反応を見ようとした。
    追い込まれた慶喜は旧幕府軍が官軍であると主張、勝手し放題の賊軍・薩摩征伐を名目に京都制圧をするために出兵、新政府の強硬政策に不満を持つ旧幕府軍主力の幕府歩兵隊、会津藩、桑名藩の藩兵、新選組らも戦闘態勢を取った。
    旧幕府軍の動きを反乱と決め付けた政府議定岩倉具視、政府参与の大久保利通らは徳川討伐を決し、にらみあいを経て1868年1月27日に「鳥羽・伏見の戦い」の火ぶたが切られた。
    薩摩藩兵中心の新政府軍は5000名、旧幕府軍は15000名と数では旧幕府軍が圧倒していたが指揮官の不在・逃亡など統制されない旧幕府軍は混乱し土方歳三(ひじかた としぞう1835-1869年)率いる新選組さえも新政府軍(薩摩小銃隊)に敗れた。
    1月29日には明治天皇(めいじてんのう1852-1912年)が小松宮彰仁親王(こまつのみやあきひとしんのう1846-1903年)に錦旗(にしきのみはた)を与え(岩倉具視・偽造説もある)、新政府軍が官軍、幕府が賊軍となった。まさに「勝てば官軍」だ。旧幕府軍は慶喜の側近の一人で現職の老中でもあった淀藩主・稲葉正邦(いなば まさくに1834-1898年)を頼み淀城入城を計るが淀藩は官軍・新政府と戦う意思がなく、賊軍・旧幕府軍の入城を拒んだ。旧幕府軍はやむなく淀千両松に布陣し新政府軍を迎撃した(「淀の戦い」)が惨敗した。
    幕府軍はさらに南に後退し、石清水八幡宮を奉じる男山と男山西側の遊郭がある宿場・橋本に土方歳三率いる新撰組を主力とする幕府軍の本隊が陣を張ったが対岸の大山崎を守備していた津藩が新政府軍側へ寝返り、旧幕府軍は総崩れとなって淀川を下って大坂へと逃れた(「橋本の戦い」)。
    慶喜は大坂城に待機していたが、旧幕府軍の敗戦が決定的になると、大阪湾に停泊中の幕府軍艦・開陽丸で江戸に逃げ帰り幕府軍の士気は一気に低下した。一連の戦いで新政府軍が優勢になり多くの藩が旧幕府軍を見限ったことで、旧幕府軍の全面敗北となり1868年4月5日には幕府側を代表する勝海舟(かつ かいしゅう1823-1899年)と新政府代表・西郷 隆盛(さいごう たかもり1828-1877年)が薩摩藩下屋敷で会談し江戸城無血開城を決定し5月13日に新政府への受け渡しが完了した。
    江戸城無血開城完了後も新政府軍への服従を固辞する旧幕府軍によって、戊辰戦争は江戸市街での彰義隊(しょうぎたい)による上野戦争(うえのせんそう1868年7月4日)、白虎隊(びゃっこたい)の悲劇で語り継がれる会津戦争(あいづせんそう)、徳川家海軍副総裁・榎本武揚(えのもと たけあき1836-1908年)率いる箱館戦争(はこだてせんそう)などへと続くが1869年6月27日に榎本武揚が五稜郭を開城し戊辰戦争は終結した。
    鳥羽・伏見の戦いは数では圧倒的多数ながら徳川260余年の慢心で統率力が弱体化した幕府軍に対し,知略を働かせた岩倉具視、大久保利通らの新政府軍が「勝てば官軍」を知らしめた戦いで、日本の新しい歴史を創った戦いであったといえるだろう。京阪伏見桃山駅近くには鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい)の弾痕が残る料亭があり、激しい戦闘の様子を垣間見ることができる。
    (写真は鳥羽・伏見の戦いの弾痕)



    【旅行時期】2008/10/21~2008/10/21
    【エリア】伏見
    【テーマ】歴史・文化・芸術
    【投稿者】さすらいおじさん

    薩摩藩に関する質問

    薩摩藩 土佐藩士か薩摩藩士の風体

    幕末に活躍した人物の本か何かで読んだのですが、土佐藩士、薩摩藩士いずれかが他の藩の者と比べて「井出達を見ればすぐに解る」程の特異なものだったとありました。どんな特徴だったのでしょうか?

      土佐藩士か薩摩藩士の風体の詳細


    薩摩藩 島津藩?薩摩藩?

    NHKの大河ドラマを見ていてふと思ったのですが島津藩?薩摩藩?どちらが正しいのでしょうか?そもそも島津藩と薩摩藩は同一のものでしょうか?それともまったく別のものなのでしょううか?薩摩藩、藩主、島津氏これは分かるのです

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    薩摩藩 幕末の薩摩藩について

    んですが幕末の薩摩藩の動向について分からない事が あり質問しました。元々、薩摩藩は「公武合体派」であり幕府を生き残らす 事が目的であったのにも関わらず何故、西郷隆盛は 倒幕を決意し、また他の薩摩藩の人間達も彼

      幕末の薩摩藩についての詳細


    薩摩藩 調所広郷(ずしょひろさと)の薩摩藩借金返済について

    広郷の改革の中に「薩摩藩の借金500万両を無利子で250年間で返済する」というものがありますが、これは今でも返済中なんでしょうか?

      調所広郷(ずしょひろさと)の薩摩藩借金返済についての詳細


    薩摩藩 薩摩藩ってすごい藩?

    防衛のため間に親藩・譜代大名を置き、名古屋城などの城を築いて万全の体制を敷いたにもかかわらず幕末には薩摩藩主力の新政府軍に倒されてしまいます。このように、九州のはずれにある薩摩藩がこれだけ長い

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